いじめられる側にも原因はあるか
もうすぐ9月ですね。
私の息子の学校は二期制で、すでに8月後半から学校が始まっていますが、私が子供の時は三学期あり、9/1が始業式でした。
9月1日。学校に行きたくない子供が自殺をすることが多い日なんだそうです。
■いじめって、いじめられる側にも原因があると思いますか?
私も過去いじめられたことがあります(とはいっても暴力はなく、クラス全体の無視や嫌がらせ程度で済みましたが)。
今思うと私はかなり空気を読めないタイプで、言葉足らずで人を傷つけたりして、嫌われるタイプだったなと思います。
「悪い部分があったか」という問いなら、私の場合はあきらかにありました。
いじめる側にしてみれば「いじめられる側にも原因がある」と思うからいじめるんだと思います。
ウザいから、臭いから、生意気だから、みたいな単純な理由もあれば、友達だと思っていたのにひどく裏切られたという場合もあるでしょう。
けれども、私はいじめられる側に「嫌われる原因」はあったとしても、それを「いじめていい理由」にしてはいけないと思っています。
いじめる側は自分で行動を選べます。ウザいから殴ることも出来れば、ウザいから距離をおいたり、ウザいから最低限の会話で済ますことも出来ます。
その「どういう行動を自分が取ったか」という責任は、自分が負わないといけないと私は思うんです。自分の親が相手にさせた怪我の賠償をすることになったとしても、推薦を取り消されても、部活を退部させられても、それは自分が取った行動による責任なのです。
逆を言えば、いじめられる側の嫌われる原因をいじめられる側が努力して直したからといって、いじめる側がどんな行動をとるかは、いじめる側にしか決められないのです。
いじめられる側は、「自分が悪いんだ」と思う前に、その理屈を知る必要があります。
人には得手不得手があるし、めざしがいきなりマグロになれるわけないんです。
いじめられてしまえば「めざし」の自分がいけないんだと、マグロにならなければいけないんだと、苦しみます。そして、世の中には私みたいなめざしは1匹で、みんなマグロなんだという錯覚に陥ります。
私に対してのいじめがなくなったのは、私が変わったわけではありません。めざしのままで周りに受け入れてくれる人が少人数だけど現れてくれたからです。
■「嫌い」を「いじめ」にしないために
「嫌い」を「いじめ」にしないためには、もちろんいじめる側が「イジメ以外の選択肢」を取れればベストだと思っていますし、いじめる側にならない教育が必要だと思います。
けれども、それはあくまでも理想論。
イスラム教の過激派にとってキリスト教は殺しても良い敵であるように、一部の強い思想を持ち、自分が正しいと思っている人には理屈が通らない場合もあります。
人の思想の自由は止められないし、自分が正義の人間はどうしても一定数います。
そういう人たちに「キリスト教は悪ではないよ」「無宗教になれば?」と言ったとしても、聞き入れないですよね。
大人でもそうなのですから、未熟な子供では、どうしても「自分は悪くない」「アイツが悪いからだ」と思いがちです。
いじめは「いじめる側」が悪いですが、対策をとるのは「いじめられる側」やその他周りの人間が取った方がスムーズなんです。
でも、いじめられる人は、他の人に打ち明けられません。自分はいじめられる人間だ、自分はダメな人間だと周囲に話すことが怖いからです。
同じく「学校に行かない」という選択肢も心が病むまではなかなか持てません。イジメを隠す子は自分が傷ついても親を悲しませたくないわけですから、学校に行かなければ親が悲しむと思ってしまいがちです。
なので、周囲の大人がすることと言えば「何があったか全部話せ!学校に訴える!」とか、「自分が強くなればいじめられなくなるよ」とかいう「めざしをマグロにする」理屈ではなく、時間がかかってもめざしが生きやすい場所を一緒に探す覚悟を決めることなのかなと思います。
今回はブログタイトルの「めざし」で例えましたが、鮎の子もいるし、金魚もいるでしょうし、フナもいるでしょうし、タイプによって、また受けた傷によって対処方法も違ってくるから、最初は手探りで長い戦いになると思うんですよね。
まずは仮の水槽でもいいから「居場所」をつくり、少しずつ快適にすごせるよう専門家の話を聞きに行くのが良いのかなと私は思います。