今更ながら保毛尾田保毛男の件について
私の中で色々な考え方が錯綜していて、上手くまとめられませんでした。
この記事を読んで自分なりに考えがまとまってきたのでここで書かせていただきます。
ちびデブや低学歴を馬鹿にするのと違いはあるのか?
これはもう色々なところで出ている意見ですが、「お笑い」って人を小馬鹿にして笑いにする一面があります。
デブ・チビ・ハゲ・ブスなどの身体的特徴や、ちょこっと変わった態度を取る人を大げさに面白おかしく表現したり。
木梨さんがおさげの格好で「ちょっと男子ー!!」とかやっていたのも、たけしさんの権瓦も、あるあるいるいるネタですよね。
でも今回は「保毛尾田保毛男」のみに怒りが向かった。
身体的特徴を馬鹿にするのと、今回の件では何が違うのか考えました。
上の記事では学歴は「選べる」、セクシャリティは「選べない」と書かれています。
でも、それなら他にからかわれやすいハゲやブスなどの身体的特徴や、親が貧乏というのも選べないっていったら選べないですよね。
大人になって、お金や努力である程度何とかなる部分と考えれば「選べる」と言っても良いのかもしれないので、選べないと言い切るのは難しいところですが。
私の中で、違いは「自分を責めるか他者を責めるか」にあるんだと思っています。
子供のころの傷が保毛尾田保毛男に向かった
このネタが今騒がれているのは、20~30年前、LGBTという言葉がないころに、保毛尾田保毛男で深く傷ついた子供たちがいたからだと私は思っています。
同じように「デブ」とか「お前ブサイク芸人の○○に似てるな~」とか、別のキャラクターでからかわれ、傷ついている子供たちもたくさんいたと思います。私もそのうちの一人です。
けれども、彼ら・彼女らの声は大きくない。
それはきっと「身体的特徴でからかう方が悪い!!」という気持ちがどこかであったからではないでしょうか。
保毛尾田保毛男で苦しんだ当時の子供たちの根底にあったのは「自分が悪い」「自分が人とは違う」ということだと思うんです。
「自分はどうして普通の男の子みたいに女の子を好きになれないんだろう」
そうやって、からかった人間が悪いのではなく、自分がダメな人間だからからかわれるんだ、という気持ちを抱えて生きてきたのではないか、と。
それはいじめに少し似ています。自分が悪いからいじめられるんだ、と思うと追い詰められるし、誰にも言えなくなる。
私はこの立場には置かれなかったマジョリティ側の人間なので、想像しかできませんが、30年前の社会が「心は変えられるもの」「性格は変えられるもの」「男は男らしく、女は女らしく」みたいな意識があったのは経験をしています。
親も「からかわれたくないなら男らしくしなさい!」なんて、マジョリティ側に変えなさい的なアドバイスを言っていたでしょうし、多分私もあの時代に親だったら、同じことを言っていた気がします。
当時相当傷ついたけれども、味方になってくれる人も相談できる人も理解してくれる人も少なかった分、大人になり自分の意見を言えるようになった今になって、大きな声となって保毛尾田保毛男に向かったのではないでしょうか。
本来その声は「保毛尾田保毛男」というキャラクターではなく、当時からかった人や理解が無かった人に対して向かうものだったのかもしれません。
子供の時に「からかう方が悪い!!!」と自信を持って叫べていたならば、この声は「保毛尾田保毛男」ではなく「からかったアイツムカついたな」という方面に向かったかもしれないですよね。
お笑いのネタに出来るような世の中になるのが一番良いのかも
私としては、上記の理由でチビハゲデブ低学歴というのと今回の件が同じ傷だ、と言い切れないと思います。
でも、実際に世の中「同じ傷」になれば、一番いいことだと思っています。
周りも、自分も、「そんなのからかう奴が一番悪いんじゃん!」と言えるような世の中。
愛しくもある「保毛尾田保毛男」というキャラクターを、他のデブネタやブサイクネタと同様、マジョリティマイノリティ関係なくみんなで笑えるような世の中。
今でも子供たちは「自分と違う者」に対しては容赦ないです。
チビ、ガリ、デブ、ブサイクもそうですし、障碍者とか、外人とか、セクシャルマイノリティとか、「みんなと違う」「自分と違う」という目で見ることがあります。
もちろん大人でも理解しきれない部分があるのは否めませんし、社会全体でこういった差別をなくすのは、人間が感情で動く生き物である以上無理だとは思っています。
けれども、先人たちの努力で、世の中は少しずつ変わってきていると思います。
昔より理解は広まっていると思いますし、イジメの時のシェルターみたいに、同じ悩みを抱える人とコミュニティを作ったり、相談窓口を作ったり、ネット等で理解者と繋がったりと、昔よりいろいろな「選択肢」が提示できるようになってきたのではないかと感じています。
親や友達など、少しでも理解してくれる人がいて「一人じゃない」と実感できれば、30年後に「傷ついた!」と大きな声で叫ばなくても良いようになっていくのではないでしょうか。