めざし女の処方箋

基本ダメダメ女のための緩いブログです。

命について 1

京アニの事件から1年、三浦春馬さんの自死、ALS患者さんの尊厳死問題、豪雨災害やコロナ禍も続き、7月は「命」についていろいろと考えさせられました。

言いたいことを1点に絞って話そうと思ったのですが、文章力がないのでとっちらかってしまってうまくまとめられませんでした。

命のことは人を傷つけてしまう可能性もあるので、丁寧に書きたくて、少し長文ですが2回に分けて書かせていただきます。 

 

 

命についてはどうしても感情が先走ってしまいます。 

人によって死生観は違いますし、正解もないです。

でも、どうしても「自分の好きな人」が亡くなった時の方が「知らない人」が亡くなった時よりも強い感情を持ちますし、「殺人犯」よりも「懸命に暮らしていた人」の方が命の重みがある、そう思ってしまうのが人の常なんだと改めて思います。

 

持てる重さの「差」

三浦春馬さんの訃報が速報で流れたときは、名前を見間違えたかと思って何度も読み直してしまいました。 

今年に入って私の好きなフィギュアスケートの選手が病気で亡くなったのですが、三浦さんと同じく若い方でした。

また、20代のロシアの選手も転落死で亡くなって、自ら死を選んだのかもしれない、という報道がつい最近ありました。

私は三浦さんのファンでも何でもないし、特別に思い入れのある作品があるわけではないけれども、若い方が命を落とされることに非常にショックを受けました。

 

亡くなった方の想いはもうご本人が語ることが出来ないので、いったいどんな想いだったかというのはわかりません。が、ただ一つわかることは、一人で抱え込みすぎてしまったんだろうなということ。

私みたいに「持たない人、持てない人」は、ハナから重責を避けるように生きていることがあるけれども、持てる人がその分持ちすぎてしまう感はあります。

三浦春馬さんはたくさんの人の色々な期待とか愛情とか、ひょっとしたら他者の歪んだ憎悪みたいなものも、たった一つの命で受け止めなければならなかったから苦しい思いをしたのかもしれません。

 

私みたいな持たなくていい人は簡単に「全部捨てて生きて逃げて」って思ってしまいますが、持っている人はその荷物の重さを知っている分「これを捨てたら誰にこの重荷が行くのだろう?」「自分がすべて捨ててしまったらどんなに周りが悲しむだろう」と考えて、余計に逃げ場がなくなってしまうのかもしれないですね……。

 

ただ、「誰のせいでもない」のです

今、三浦さんの身近な人とかファンの方とかはなんで気づけなかったのかと苦しんでいるでしょうけれども、自分が好きな人たち、特にファンには気づかれないようにしていたでしょうし、むしろ三浦さん本人も限界まで自分がどれだけ深い暗闇の中にいるか気づけなかったのかもしれません。

必死に「手元に懐中電灯があるから大丈夫」と歩き続け、体力が無くなった時に懐中電灯の電池も切れてしまったのでしょう。

 

暗闇で生きのびようとすることが例え三浦さんにとって苦しいことだったとしても、生きていて欲しいと思うのは自分のエゴかもしれないと思っても、人は「生きていてほしかった」と思ってしまうものですし「死んで楽になれたね」なんて割り切ることはできません。

「どうにかして助けたかった」 と思うと、人は原因を探ってしまいます。

「あの時話を聞けなかった自分のせいじゃないか」

「助けられなかった周りの人間のせいじゃないのか」

そう思ってしまうのが人間ですし、何かを責めてしまいがちです。

 

水難事故とか交通事故などでも助けられる場合とそうでない場合があるように、さまざまな条件が悪い方に重なって助けるのが非常に難しいパターンってあります。

手順を追っていれば絶対に助けられるものでもなく、水難事故とかでは必死にもがいたら浅瀬についたとか、飛び込んで助けてくれた人がいたとか、いわゆる「推奨されていない」方法で助かる場合もあれば、「浮いて待て」をしていたのに岩に激突して気絶してしまったとか、プロが救助に来てくれたけれども助からないパターンなどもあります。

 

病気も、早期発見出来るときとそうでないときがありますし、早期発見できても治療法が合わない場合もありますし、早期発見できなくても劇的に治る場合もあります。

 

すべての死に於いて、死に至るまでの要因はひとつではありません。

どうか原因はこれだと思い込んで自分や他人を責めないように、どうか残された人たちが苦しまないように、と思うのですが、身近であればあるほどその苦しみを断ち切るのが難しいですよね……。

自分や他人を責めてしまうと自分も暗闇に迷い込んでしまいます。

せめて時間が少しでも苦しんでいる皆さんの心を癒してくれて、自分や他人を責めなくて済むようになって欲しい、そう願って止みません。