引きこもりはいつも隣りあわせ
私は専門学校の時、学校に行けなくなったことがあります。
理由は「自分が努力できない人間だと知ったから」
自分が好きなことを学ぶために、親にお金を出してもらって付属の大学を蹴って専門学校へ行ったのに、遊んだり飲んだりの方が楽しくて、好きなことですら必死になって学ぶことが出来なかった自分。
周囲との実力の差が出来て、劣等感の塊になってしまいました。
学校に行ったらダメな自分と向き合わなくてはならず、ダメな自分と向き合うことが出来ず、怖くなって学校に行けなくなりました。
運よく私の場合は友人の支えにより学生の間に学校に行くことは出来て本格的な引きこもりは回避できたのですが、結局学校は出席日数不足で退学しました。
と、なんでいきなり変な自分語りを始めたかというと、こんな記事が出ていたから。
同じ40代の方の苦悩。
この間の「命について」でも書きましたが、洞窟の奥底で声が届かなくなってしまうと、暗闇から抜け出せなくなります。暗闇に耐えられなくなり自ら命を絶つ人もいれば、穴の中で食料などの支援を受けながら生活する人も出てきます。
私はたまたま洞窟の奥に進む前に引き返せたからよかっただけ。引き返せたのは自分の力とかではなく、生活環境とか運とか色々な要素が絡むことですので、私も糸の掛け違いが連続で起きていたらこの人のようになっていたかもしれません。
人間は「出来る自分」を求めてしまう
私が半分引きこもり状態から抜け出したのは、電話で相談した友人の一言がきっかけでした。
本当に良くある一言でした。
「大丈夫。出来なくても大丈夫だから」
誰しも出来ないことがあって、出来ないことは避けて出来ることで頑張っている。出来ないことをやろうとはせずに出来ることからやってみよう、とりあえず遅刻しても足が重くても結局学校に行けなくてもいいから学校へ行く電車に乗ってみるとか、自分が出来ると思うことから始めてみればいいんじゃない?と私を優しく諭してくれました。
出来なくても大丈夫。この言葉には社会人になってからも何度も助けられました。
でも、実際は「出来なくて大丈夫」なんてことはない。
多少語弊があるので正確に言えば「出来なくても大丈夫なことはたくさんあるけれども、常識や社会の枠組みから外れる範疇で出来なくなってしまうと、どんどん世間から外れる道を選ばざるを得なくなってくる」ですね。
本当は「出来なくても大丈夫」じゃないから、「(この部分は)出来なくても大丈夫だから、予め助けを求めて事を大きくしないようにして心が病まないようにしよう、傷を小さくしよう」という意味で、自分も周りも「出来なくても大丈夫」と唱えるわけです。
世の中、自分が出来ないことを他人がいとも簡単にしてくれるからこそ社会は成り立っています。本来、出来ないことがたくさんあるのが当たり前だからこそ人は社会を作り生きているわけです。
そして何かが出来ない分、自分が出来ることを社会に提供することで社会は成り立ちます。その「出来ること」が提供できない(と思い込む)と、人は病んでいくのではないでしょうか。
大抵、最初のつまづきは「出来なくても許されることを自分で責めること」から始まるんですよね。
「うまく人づきあいができない」
「学校に行きたいのに足が動かない」
「仕事で人が簡単にできることを自分は出来なくて上司に責められた」
などなど。
この時点では、やれるかやれないかは別として、理論上解決策はたくさんあります。
例えば転職や配属替え等で環境を変える、上司に訴えて問題を解決する、病院で薬を処方してもらい治療する、 など。
「これは出来なくてもいいんだ、とりあえずこっちが出来ればいいんだ」
「環境を変えれば受け入れてくれるところがある」
という方向性が見つかれば出口にたどり着きます。
けれども冒頭で話した通り、「出来ない」の理由はプライドとか自分の思想だけでなく、自分の体質だったり生活環境だったり金銭的事情だったり、いろんな事情があるから、自分の力だけで這い上がれない場合もあって、出口に行けない場合もあるんですよね。
そうやって出口にたどり着けないと別の道に行かざるを得なくなり、どんどんと洞窟の深い部分に行ってしまうわけです。
出来ないことがいっぱいになってしまうと苦しい
私が学校に行けなかったとき、ずっとゲームをしていました。
インターネットはまだ世に出て間もなかったので、「パソコン通信」でチャットをしたりもしていました。
ゲームやチャットをやりたいという気力はあったわけだし、今思えば当時そこまで心が病んでいたわけではないんです。
でも、以前は簡単にできていたことが出来なくなり、出来ないことでクラスメイトに心配されたり怒られたりしました。
そのクラスメイトの言葉が正論であればあるほど「なぜ自分はこの人たちの声に応えられないのか」と、自分の出口を「親やクラスメイトの期待に応えて学校に普通に通うこと」だけにしてしまい、他の出口はひたすら自分で塞いでいました。
でも私にとっての正解の出口は「人の期待に応えないこと、自分のダメさを受け入れること」でした。期待に応える出口は私の足で歩いていけるものではありませんでした。
それに早めに気づけたからなんとか脱出はできましたが、気づけなかったらきっとチャットでも人間関係でトラブルがあって辞めてしまったりして、余計社会やストレスから逃げ出そうとしていたでしょう。
記事の男性と自分の違いって何だろう?
記事の男性は、「出来ないこと」がいっぱいになってしまって苦しんでいると思います。
それで母親を苦しめていることも苦しいでしょうし、そういう全ての現実をみたくないからトイレにも行けなくなってしまう。
どこかで正解の出口を見つけなければいけない。
引きこもりの人たちは正解の出口が見つからず奥深くに入ってしまって出口まで時間がかかるだけで、出口が見つからないことはないです。
でも、記事のように洞窟の奥底に行ってしまった人を助けるのは困難を極めますし、まずその場で立ち上がることすら難しいです。
引きこもりとそうでない人との差って、浅い内に出口を見つけられたかというだけなのでしょうね。
結局浅かろうが深かろうが、「出来ない」ことを「出来るようにする」ではなく、少しでも出来ることから始めて行かないと、物事は動かないんですよね。
引きこもりと普通に生活できる人って隣り合わせ。
自分が「周りの人」になったとき、助けを求める人を本当の意味で手助けできる人間になれるかどうかはわかりませんが、本来の出口を塞いで「理想の出口に出てこないとだめだ」と相手を責め立てることだけはしないように気を付けようと思います。